西暦350年ごろ、景行天皇の皇子、大和武皇子(ヤマトタケルノミコ)が東日本統一のために上総にやって来る。
今の横須賀から君津に船で上陸したとされ、その時に嵐を鎮めるために最愛の妻「弟橘姫(オトタチバナヒメ)」が
犠牲になる。ヤマトタケルは「君さらずや」と嘆いたことが君津の地名の由来と言われる。
実は、木更津の地名の由来も同じと言われ、どちらが本家か?という論争があり、
これが両市の合併の妨げになっているという冗談のような本当の話もある。
その後、ヤマトタケルは地元の阿久留王(アクルオウ)と戦うことになるが、海岸から小糸川に入り、
三舟山(かつては御船山)の麓に船を着岸し陣を構えたと言われる。
まさに、ポレポレ農園のある場所。 ハウスの辺りがちょうど着岸した場所、今では勝手に思い込んでいる。
一方で地元の阿久留王は腕が六本ある強者と言われ、居住していたとされる鹿島台に「六手(むて)」という地名が
残っていることは、偶然ではない。阿久留王は最終的にはヤマトタケルに敗れる。
鹿野山にはその塚が残されており、神野寺はその鎮魂のために建立されたものとされる。
戦闘中に目から流血したとされる山は「鬼泪山(キナダヤマ)」として残っている。
ここまでくれば、ただの伝説ではない。
これまで縁もゆかりもなかった君津をなぜ選んだのか。伝説に惹かれただけではない。
これは会社人のころから、関東近県7県をコツコツと調べてきた結果なのである。
@山・海に囲まれた自然豊かな環境であること
Aアクアラインを通じ首都圏へのアクセスが大変良いこと
B新規就農者への理解が地元の農業者・行政ともに高いこと
最初の2つは自分なりの観光農園の立地条件。Bの場所を探すのは案外難しい。
でもこれが伴わなければ、新規参入での農園開設は実現できない。
理解者はもちろん、大竹師匠とそのご家族が原点だ。
そして、地元の農業者の方々が農地選定を含めた応援をしてくれる。
さらに行政からは、県庁担い手支援課と君津農業事務所がその橋渡しをしてくれる。
君津市役所の農林振興課・農業委員会事務局は、自分のことのように契約関係、助成事業について考えてくれる。
この地は、心強い味方がいる。
意外に思われがちだが、「就農は大変だよ」の一言で門前払いする行政機関が実際には多い。
これは大変残念である。その意味でも君津の魅力は高いと言える。
「田舎は周りとの付き合いが濃いので煩わしいでしょ」
と、地元の人から言われるが、実感は逆だ。地域との密着感が心地いいとすら感じる。
これから始める自分達の農園は小さなものだが、君津の地域に貢献できるようにしたい。
これが皆さんへの恩返しの最初の一歩と考えている。
まだ、具体的にはうまく言えないが、そんなことを考えながら新しい世界でスタートしたのである。